「子供、もう一人いけるんじゃないか発言に、どう向き合う?」じぶん私発見教室
こんにちは。紫月です。
育休終了まで、あと約1か月になりました。
子供たちも、朝起きる時間が早くなり、職場復帰後モードに徐々にシフトしている感じがあります。
下の子も、少しずつ慣らし保育をしています。まだ先生に預けて離れるときは、ママ~と泣いていますが、少し経つとお友達と遊べるようになってきているようで、成長の早さを感じます。
子供が保育園に慣れてからでないと、母親は働きに行くのがしんどいですが、何がしんどいって、自分の方が、新しい職場生活に中々慣れなさそうだからじゃないかなと…。
私の場合は、産前休暇からの約二年半、人との会話と言ったら、保育園の先生と少し、事務連絡をするのが関の山。家族以外とほぼ会話をしていなかった空白の時を経て、職場に戻った日から、いきなり電話に出て、上司に説明をして、担当者と打ち合わせをして、なんて日が始まるんです。
ひっさびさに、人とまともに会話できることは、とっても嬉しく感じるだろうと思うのですが、果たしてまともに仕事の話ができる能力が残っているのか…。甚だ不安です。
まぁ、しばらくは大人にだってリハビリが必要だよね、と思って、気楽にいこうと思うのですが、それが許されるのかどうか。
現場を離れているので、様子が分かりません。
この1か月で、探りを入れて、仕事モードに持っていかねばなりませんね…。
さて、そんな風に感じている今日この頃、これまた久しぶりに、次の言葉をかけられて、なんだかモヤモヤしてしまいました。
「子供、一人くらい、まだ全然いけそうだよね!」
パターンは無数にあって、
「もっと産まないの?」
「あと何人欲しいの?」
的な発言も同様です。
職場でも、今後育休の可能性があるのか、必ず聞かれる質問ですし、子育てが落ち着いてきたときに、周囲からたま~に聞かれたりするやつです。
年齢的に、まだ出産できそうな年齢だと思われているから、そういうことを言われると思うので、そのことを言われること自体は、私はそこまで嫌でもないです。
でも、その後に、自分の中で、なぜかいつも、モヤモヤして引っかかってしまう感じがするのが、とても嫌なんです。
男の人に話しても、あんまり分かってもらえなくて、かといって、他の女の人に聞くのも怖くて聞けなくて…。
私は今、長女と長男、2人の子供がいます。
ずっと男女一人ずつ、2人欲しいな、できれば一姫二太郎で、と思っていました。
ありがたいことに、それが叶い、とっても嬉しくて、神様にとても感謝しました。
現状にはとても満足していて、2人を一人前に育て上げることを考えていけばいいと思っているんです。
だから、「もう一人産まないの?」と言われた時には、「2人で十分。もういらない。」といった趣旨で答えていることが多い気がします。
2人で十分というのは、ずっと2人欲しいと思っていたのが叶ったから、という思いが1つ。
そしてもう1つ、2人育てるのが大変だから、これ以上増えたらもっと大変そうで嫌だから、という思いが混じっています。
モヤモヤする原因の一つは、大変そうな事態を避けようとしている自分が嫌だという点。
世の中には、3人、4人、5人も生んで、育てている母親がいるのに、自分にはそうしようと思えなくて、身体的にも精神的にも経済的にも頑張れない自分が悔しい。
何だかおかしいのは分かります。
2人いれば十分だと思うなら、周りと比べる必要なんて何もないのに。
頑張らなくたってそれでいいのに。
本当は、もっとたくさん子供を産みたいし、育てたいんだと思います。
心のどこか深くでそう思っている自分がいるんです。
だけど、もういいかな、と思ってしまう。
子だくさんの家族や、たくさん産んで頑張って育てているお母さんを見ると、よくそんなに産むよと僻んで見てしまう自分が本当に嫌。
沢山こどもほし~いと、素直に子供好きになれない自分が嫌。
子供が増えれば増えるほど、自分に使える時間が無くなって、自分のしたいことができなくなる、と思ってしまうことが嫌。
自分はあんまり子供が好きではないのかも、と認めるのが嫌。
子育ては大変だからと言い訳して、楽な道を歩もうとしているのが嫌。
「もう子供いいの?」「もういい」
このやり取りをするだけで、こういうネガティブな感情がいつもわんさか生まれてくるんです。
おかしいんですかね?
そんなことありませんか?
ちょっと誰かに聞いてみたいなぁ、なんて少し思います。
こうやって、ネガティブな感情が生まれるのは、その裏側に何か大切にしているものが隠れているから。
どの本か忘れてしまったのですが、ネガティブな感情が生まれたら、自分がどんな価値観をもっているのか、発見するチャンスだと書かれていました。
これを今回のパターンに置き換えてみると、まず私は、子沢山はいいこと、子供をたくさん産める女の人は素晴らしい、という価値観を持っているようです。
これは、遺伝子レベルでそう思うようになってるんじゃないか、とも思ってしまいますね。
それか、もしくは、私は歴史関係の本や漫画をたくさん読んできたので、子供を産めない女の人や、子沢山じゃない家族の不遇な様子を見てきたからか…。
子供を沢山産める女性を、何でいいかと思うのかと考えてみると、まずは、その健康な体。そして男の人をその気にさせる魅力。自分の肉体を犠牲にしても、新しい命を紡ごうとするその精神。
それらが素晴らしいと。
そして、それができない自分は、それらが欠けていると思ってしまう。
女として、強い体も、性的魅力も、包み込むような母性も、不十分だと感じてしまう。
そして、私は、自分のことよりも、子供のことを優先できる母親が素晴らしい、という価値観を持っていそうだということ。
疲れていてもいつもニコニコしていて、子供が帰ってくるときはいつも笑顔で迎え入れて、仕事よりも趣味よりも子供といる時間を大切にして…。
私の母親がそんなような人でした。よく遊んでくれたし、いつも家に帰るときは美味しい料理を作って待っていてくれた。とにかく母親が大好きだったみたいです。
でも、私にはそれができない。
子供と遊んでいるよりも、自分の好きなことをしていた方が楽しいし、子供が思い通りに動いてくれないとイライラしてしまうし、子供のことを一番に考えられていない気がする。
私はもうこれ以上、自分を犠牲にしたくないと思ってしまう。
自分で望んで産んだ子供なのに。天から授かった大切な可愛い子供なのに。
あんまり遊んであげなくて、寂しそうにしている子供が目の前にいるのに!
最後は、大変なことも頑張ることが素晴らしい、という価値観がありそうということ。
無理して頑張る必要はない。自然にできる、好きでやっている、得意なことを伸ばせばいいという考えもありますよね。でも、頑張らないことは逃げることだとマイナスに捕らえてしまう自分もいるし、頑張っていること自体が好きという自分もいる。
ないものねだりは、何にでもあってしょうがないものだとは思います。
ですが、この”子供コンプレックス”は、自分の自己肯定感や、自己認識に直結している気がしてほっておけません。
このコンプレックスを克服しない限り、いつまでも付きまとうような気がしています。
さぁ、だからといって、どうすればいいのでしょう。
子供のことが大好きで、母性に溢れる献身的な、頑張る母親が素晴らしい、という価値観を持っているんだね。
でも、そうなれない自分が嫌なんだね。
そこまではこれました。
じゃぁどうすればいいのか。
そんな自分でいいんだよ。と欠けている自分を受け入れるか。
もしくは、心から子供が大好き!と言える人になるか。
根っからの子供好きには、あまりなれそうにありません。
でも、そう思ってしまうのも嫌で…。
なんて欲張り!我儘なの!
そう思わずにはいられません。
最後に落ち着くべきところは、そんなダメな自分でもいいんだよ、と自分に言ってあげることな気がします。
そんな自分を好きになって、愛して、受け入れることなのでしょう。
あとは、子供や家族のことよりも、自分の好きなことをすることこそ素晴らしい、という価値観を上位に持ってくるかどうか。
そして、頑張るとか、努力するとか、そういう、本当の自分を無理に捻じ曲げる行為を、求めるのではなくて、自然体で楽にニコニコいられればそれが一番なんだと思うようにするか。
落としどころは、そんなところではないかと思いました。
これからも、自分の女性性、母性を考えて、落ち込むことが多々出てくると思います。いつも嫌~な気分になることもあると思います。
そんなときは、こんな嫌な気分になるほど、実は、子供を愛したいと願っているし、大切に思っているのではないか。
そんなことを思い出して、自分を慰め、鼓舞し、ネガティブな感情を少しでも楽にとらえていこうと思います。